船岡山/玄武 四神相応の地


- GPS
- 01:21
- 距離
- 4.0km
- 登り
- 26m
- 下り
- 41m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2021年01月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
長岡京から平安京への遷都事業は延暦十二年一月から始まっていた。初代造宮大夫である藤原小黒麻呂は、新京予定地域の葛野郡に視察に入っている。いわゆる「地相」を占するためである。地相とは「四神相応之地」を意味し、北に玄武、南に朱雀、東に青竜、西に白虎が配されている。四神には、地形上のシンボルがあり、北の玄武は大岩、南の朱雀は大池(湖)、東の青竜は大川、西の白虎は大道とされる。これは現在、北は船岡山、南は巨椋池(昭和十六年干拓)、東は鴨川、西は山陰道とされる。候補地は「吉」と出た。新都の建設が始まったのである。
・・・。(京都検定テキスト)
山内図で場所を確認!
今日は冬の旅で公開されている瑞峯院、聚光院に絞って行ってみる。
いつも盛りだくさんで知識がごちゃごちゃ(-_-;)
もちろんこの時間はまだ開いていないので
いわば下見(-_-;)
キリシタン大名のことが書かれている。
昨年の京都検定1級試験に出た。
17-1-27
重森三玲がキリシタン大名・大友宗麟にちなみ、十字架をイメージして作庭した庭園がある大徳寺の塔頭はどこか。
答えは瑞峯院。
お庭は”閑眠庭”のこと?
感想
体調の管理にはコップ一杯の水と運動が良いらしい。
コップ一杯の水を飲み出かける。
いつものビルの屋上からよりもできたら自然の中で朝日を拝みたい♫
船岡山へ・・・。
しかし、出かけるのにちょっとてこずった(-_-;)
今日出かける一帯は京都検定にたくさん出題される場所。
お勉強と運動を兼ねて・・・。
今日の冬の旅のポスターが目に入った。
出かけられるといいなぁ♫
〇大徳寺(北区紫野大徳寺町)
本尊
釈迦如来
臨済宗大徳寺派の大本山。山号は龍宝山。大燈国師(宗峰妙超)が赤松則村の帰依を得て紫野の地に小庵を建立して「大徳」と名付けたのに由来。創建は正和四年(一三一五)と伝える。建武元年(一三三四)、後醍醐天皇により「本朝無双の禅苑」として京都五山の上に置かれ、寺域も拡大した。しかし、当寺と対立する夢窓疎石に帰依した足利尊氏が政権を執ると急速に衰退、寺格も五山の下の十刹に置かれた。永享三年(一四三一)、自ら五山を脱し、「林下」と呼ばれる在野の禅院として独自の宗風を築いた。一時荒廃したが、堺の豪商尾和宗臨の援助で復興、さらに連歌師宗長の支援も受け再興した。この頃から、一休宗純の真珠派、陽峰宗詔の龍泉派、東漢宗牧の南派、古嶽宗亘の北派の四派が生まれた。天正十年(一五八二)、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を盛大に挙行し、その菩提寺として総見院を建立、以後武将による塔頭建立が相次いだ。千利休の帰依を受けて以来、茶道との関わりが深く、千家の菩提寺である聚光院をはじめ、ほとんどの塔頭に茶室がある。
中心伽藍は勅使門から三門(山門)、仏殿、法堂と南北に一直線上に並び、後方に庫裏、東に方丈が配される禅宗寺院の典型的な伽藍配置を示している。唐門(国宝)は桃山時代の建築で、聚楽第の遺構を移築したもの。方丈および玄関(国宝)は江戸時代初期の建築で、方丈には狩野探幽の障壁画(重要文化財)がある。勅使門(重要文化財)は内裏の門が下賜されたもの。三門(重要文化財)は一休に参禅した連歌師宗長の寄進によるもので、天正十七年に千利休によって、上層金毛閣が設けられて完成した。三門に続いて、仏殿・法堂(ともに重要文化財)が並ぶ。法堂の天井には狩野探幽の描いた雲龍図がある。他に、寝堂・浴室・経蔵・庫裏・廊下・侍真寮・鐘楼がいずれも重要文化財の指定を受けている。本坊方丈の南の庭園は、東南の隅に賀茂川の黒大石と紀州の青大石を並べ立て滝口とし、その下に平石を置いて渓流をかたどったもので、東の庭園は細長い枯山水の庭。方丈庭園は国の史跡および特別名勝に指定されている。寺宝には、牧谿の代表作として知られる「観音猿鶴図」をはじめ、「本朝無双の禅苑」と記された後醍醐天皇宸翰御置文、大燈国師頂相、虚堂智愚墨蹟(いずれも国宝)の他、重要文化財に指定されている絵画や墨蹟が数多くある。(京都検定テキスト)
京都検定過去問
13-3-02-018
応仁の乱(応仁・文明の乱)で荒廃した大徳寺を堺の豪商の援助を得て復興し、晩年を過ごした酬恩庵(京田辺市)に等身大の像があることで知られる僧は誰か。
03-2-04-034
南宋の画家牧谿の代表作として名高く、足利将軍家伝来の大名物ともなった大徳寺本坊の国宝の水墨画はどれか。
01-3-03-21
大徳寺は、鎌倉時代末期に( )が創建した。
01-3-03-22
大徳寺は建武の新政を断行した( )の帰依を受け、京都五山の上に格付けされて保護されたが、室町時代になると、幕府の保護を辞して、在野の寺院となった。
01-3-03-23
大徳寺は一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( )の援助で復興した。
01-3-03-24
安土桃山時代には( )が、織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭「( 25 )」を建立した事から、これに倣う諸大名の塔頭建立が相次いだ。
01-3-03-25
安土桃山時代には( 24 )が、織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭「( )」を建立した事から、これに倣う諸大名の塔頭建立が相次いだ。
04-3-02-017
千利休の帰依を受けてから、茶道との関りが深く「茶面(ちゃづら)」とも称される寺院はどこか。
06-3-02-017
紫野にある( )は、茶道との関わりが深く、俗に「茶面(ちゃづら)」と呼ばれる。
07-1-02-14
大徳寺の開山となり、のちに「大燈国師」の諡号(しごう)を贈られた僧は誰か。
11-1-06-03
大徳寺にある三門(重文)は、( )の別名で呼ばれている。
11-3-02-017
俗に「( )の茶面」と称されるのは、千利休の帰依を受けて以来、茶道との関わりが深く、ほとんどの塔頭に茶室があるからである。
〇聚光院【大徳寺塔頭】
本尊
釈迦如来
永禄九年(一五六六)、三好長慶の菩提を弔うため、養子の義継が創建。開祖は笑嶺宗訴。茶道三千家の菩提寺であり、境内の墓地には千利休の供養塔をはじめ、歴代の墓がある。また閑隠席および桝床席(ともに重要文化財)と称する茶室は有名で、露地も見事である。方丈の南庭は百積の庭と呼ばれる枯山水の庭で、現在は苔が一面に広がっているが、明治時代中期頃の写生図には白砂敷が描かれている。国の名勝。なお方丈(重要文化財)の襖絵「四季花鳥図」「琴棋書画図」は狩野永徳によって描かれたもので、「瀟湘八景図(ショウショウハッケイズ)」(いずれも国宝)は永徳の父松栄の作である。(京都検定テキスト)
京都検定過去問
05-2-03-026
大徳寺の塔頭である( )は、茶道三千家の菩提寺で、狩野松栄・永徳父子が描いた方丈襖絵が国宝に指定されている。
03-3-04-038
聚光院の障壁画「琴棋書画図(きんきしょがず)」や上杉家本「洛中洛外図」(ともに国宝)を描いた安土桃山時代を代表する画家は誰か。
〇建勲神社(北区紫野北舟岡町)
祭神 織田信長、織田信忠
正式には建勲神社(たけいさお)と呼称する。天正十年(一五八二)の本能寺の変ののち、豊臣秀吉が正親町(おおぎまち)天皇の勅許を得て、船岡山を織田信長の霊地と定めたことに始まるという。明治二年(一八六九)、明治天皇の命により織田信長を祭神とした神杜を創建し、建勲神社の神号を賜わった。同八年には別格官幣社に列し、社地を船岡山に得て、社殿を新営した。同十三年には信長の子信忠を配祀し、同四十三年に本殿以下、諸舎を船岡山中腹から山上に移した。船岡山一帯は国の史跡。(京都検定テキスト)
京都検定過去問
04-3-02-014 船岡山の山上にあり、織田信長・信忠父子を祀っている神社はどこか。
07-1-02-11
船岡山の山上にあり、織田信長・信忠父子を祀る神社はどこか。
09-2-02-012
船岡山にある( )には、織田信長・信忠父子が祀られている。
〇瑞峯院
(京都検定テキスト)記述なし(-_-;)
ブログは
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